「かわいそう」
ふびんに思(おも)える 様子(ようす)
気の毒(きのどく)な 様子(ようす)
同情(どうじょう)の 気持(きも)ち
と 辞書(じしょ)には 書(か)かれている。
普段(ふだん)から よく使用(しよう)し、
特(とく)に 気(き)にも とめずに
過(す)ごしているのでは ないだろうか。
しかし、ちょっと考(かんが)えてみよう。
この
「かわいそう」の裏(うら)に
どんな 気持(きも)ちが 隠(かく)されているのか。
辞書(じしょ)には
「かわいそう」と 言(い)われる側(がわ)の
様子(ようす)が 解説(かいせつ)されている。
そして、その様子(ようす)について
「同情(どうじょう)」が 喚起(かんき)されるとある。
では
「同情(どうじょう)」とは 何(なに)か。
他人(たにん)の 身(み)になって 感情(かんじょう)を 共有(きょうゆう)し、
不幸(ふふこう)や 苦悩(くのう)を自分(じぶん)のことのように 思(おも)いやり いたわること。と いうことである。
つまり、
「かわいそう」という 言葉(ことば)は
何事(なにごと)も無(な)く 平和(へいわ)な者(もの)が
そうではない者(もの)に 対(たい)して
思(おも)いやり いたわりの心(こころ)を 持(も)つことだ。
「かわいそう」は、
自分自身(じぶんじしん)は
「かわいそう」の 対象(たいしょう)ではないことへの、
暗示(あんじ)ではないだろうか。
※「暗示(あんじ)」=間接表明(かんせつひょうめい)/無意識的感情強制(むいしきてきかんじょうきょうせい)すなわち、
「かわいそう」という言葉(ことば)を 発(はっ)したとき、
人(ひと)は 無意識(むいしき)のうちに 対象(たいしょう)を
貶(おとし)めて見(み)ていることに ほかならない。
そして、自分(じぶん)の 優位性(ゆういせい)を 確認(かくにん)することで、
安心(あんしん)と 立場(たちば)の保全(ほぜん)を 保(たも)とうとする。
「かわいそう」と 言(い)った者(もの)は、
「かわいそう」な者(もの)に対(たい)して、
絶対優位(ぜったいゆうい)なのである。
では
「かわいそう」と 言(い)われた者(もの)は、
本当(ほんとう)に
「かわいそう」なのだろうか?
否(いな)、本当(ほんとう)に
「かわいそう」な者(もの)は
ごくごく 稀(まれ)な存在(そんざい)であろう。
それは、相対的(そうたいてき)な 感情(かんじょう)であるがゆえに、
絶対的(ぜったいてき)に
「かわいそう」な人(ひと)という者(もの)が、
存在(そんざい)しにくいからである。
ある立場(たちば)では
「かわいそう」であっても、
別(べつ)の角度(かくど)から 切り取(きりと)ってみれば、
「かわいそう」ではなくなる。
結局(けっきょく)のところ、誰(だれ)も
絶対(ぜったい)「かわいそう」ではない。
わたしは この
「かわいそう」という言葉(ことば)が 大嫌(だいきら)いである。
それは、この言葉(ことば)に 含(ふく)まれている
自己(じこ)の優位性(ゆういせい)の 表明(ひょうめい)による。
「かわいそう」という言葉(ことば)を 聞(き)くと、
発(はっ)した者(もの)に対(たい)して 嫌悪感(けんおかん)を抱(いだ)く。
そして 言(い)われた者(もの)に対(たい)して、
「かわいそうじゃない」と 思(おも)うのである。
人間(にんげん)に 上下(じょうげ)は無(な)い。
常(つね)に 対等(たいとう)な 存在(そんざい)である。
Tutorであるならば、学習者(がくしゅうしゃ)に 対(たい)して
「かわいそう」と 言(い)うべきではない。
対等(たいとう)の 立場(たちば)で 接(せっ)しなければならないのである。