新(あら)たな 学生(がくせい)も 受け入(うけ い)れたので、そのぶん 締切(しめきり)も 増(ふ)えるのである。
もちろん 学生(がくせい)の 締切(しめきり)を 優先(ゆうせん)するので、自分(じぶん)の 仕事(しごと)は 後回(あとまわ)しになる。
包丁砥(ほうちょうとぎ)を、半年(はんとし)に 一回(いっかい)することにしている。
包丁(ほうちょう)の 切(き)れが 悪(わる)くなってくると、焦(あせ)るし イラついてくる。
六月(ろくがつ)に したかったが、今月(こんげつ)になってしまった。
これも五月(ごがつ)からの 持ち越(もちこ)し・・・
何(なに)を ラミネートしたのかというと・・・
屋久杉(やくすぎ)の 薄片(はくへん)である。
コースターとして 使用(しよう)していたのだが、ある日(ひ) 鍋底(なべぞこ)に 貼(は)りついているのに 気(き)づかずに 火(ひ)にかけてしまった。
しばらくして、素晴(すば)らしい 芳香(ほうこう)が 台所(だいどころ)に 立ち込(たちこ)めだした。
何(なに)かと 見(み)てみると、貼(は)りついた 屋久杉(やくすぎ)コースターが 焦(こ)げていたのである。
幸(さいわ)い、形(かたち)はとどめていたので どうにか 保存(ほぞん)したいと 思(おも)っていたのである。
そこで 思(おも)いついたのが ラミネートであった。
これで、コースターとしても 復活(ふっかつ)できそうだ。
外界(がいかい)は コロナ感染拡大(かんせんかくだい)と、命(いのち)にかかわる 猛暑(もうしょ)で 大変(たいへん)なようである。
必要最小限(ひつようさいしょうげん)しか 外出(がいしゅつ)しないのだが、たまに 出(で)たとき、このような 状況(じょうきょう)で 活動(かつどう)している人(ひと)を 見(み)ると 疑問(ぎもん)を 抱(いだ)いてしまう。
ドラマの 撮影(さつえい)の ようであった。
水(みず)に 入(はい)っているスタッフは まだ ましかもしれないが、レフ板(ばん)や それに当(あ)てられる 演者(えんじゃ)は 大変(たいへん)だろう。
今(いま)、この時間(じかん)、この時期(じき)・・・じゃなくても できるはずなのに。
社会(しゃかい) 経済(けいざい)は、待(ま)ってくれないのだ。
久(ひさ)しぶりの 疎水(そすい)の アオサギ。
3年前(さんねんまえ)までは、毎日(まいにち) 見(み)ていたのに・・・
セミの 抜け殻(ぬけ がら)
今年(ことし)は 梅雨明(つゆあ)けが 早(はや)く、一気(いっき)に 猛暑日(もうしょび)に 突入(とつにゅう)した。
そのため、暑(あつさ)さに 反(はん)して セミの鳴き声(なき ごえ)が 聞(き)こえないという 期間(きかん)があった。
ラジオなどでは、セミが 遅(おそ)いなどと 言(い)われていたが、それは 猛暑(もうしょ)が 早(はや)まった だけである。
セミを 遅刻者(ちこくしゃ) 呼(よ)ばわりしてほしくない。
セミは 自分(じぶん)の ペースを 守(まも)って 羽化(うか)しただけである。
庭(にわ)に キノコが 生(は)えた。
幼児(ようじ)が 並(なら)んで 歩(ある)いているようで、愛(あい)らしかった。
しかし、その日(ひ)の 午後(ごご)の 豪雨(ごうう)で キノコの精(せい)は 消(き)えてしまった。
同居人(どうきょにん)の ニホンヤモリ。
太陽(たいよう)にあたっていたので 体(からだ)が 透(す)けて 見(み)えた。
かわいさ 倍増(ばいぞう)

ちっちゃくても 生(い)きている。
トキや コウノトリや ニホンカモシカや ヤマネコだけが 保護(ほご)されるべき 生物(せいぶつ)ではない。
彼(かれ)らが 絶滅(ぜつめつ)に 瀕(ひん)した 原因(げんいん)は、彼(かれ)らの 生活環境(せいかつかんきょう)の 破壊(はかい)に 求(もと)められるべきである。
そこには、現代人(げんだいじん)なら 目(め)をそむけたくなるような 生物(せいぶつ)もいる。
しかし、そのような 生物(せいぶつ)が 自然(しぜん)を 支(ささ)え、生命(せいめい)を 育(はぐく)んでいるともいえる。
小(ちい)さな 命(いのち)の 大(おお)きな 力(ちから)を 愛(いと)おしいと 思(おも)う。
モロヘイヤを 買(か)ったら、袋(ふくろ)に こんな ことが 書(か)いてあった。
『軟弱蔬菜(なんじゃくそさい)』
イメージは わかるが、なんだか 悲(かな)しくなってしまった。



こんな『モロヘイヤキャラ』を 想像(そうぞう)してしまった。
ある日(ひ)の レシート。
数字(すうじ)の 並(なら)びが カウントダウンに なっていた。


レシートまで 締切(しめきり)に 向(む)かって 鞭(むち)をふるってくるのか
